彼女の結婚

<1. 兆し>

彼女が結婚を意識したのは、26歳くらいの頃だった。

つきあって5年ほどの彼は同じ職場の同僚で、頼りがいのあるやつに見えた。二人の関係も良好だったし、結婚するのは自然な流れだと思っていた。ただ、プロポーズの言葉や、それを自分がどう受け止めたのかについて、彼女には記憶がない。


結婚が決まり、どんな式にするかの話し合いが始まってから、雲行きは怪しくなった。
ちょうど人前式というスタイルが導入され始めた頃で、信じてもいない神に結婚を誓うというのもおかしい、と考えた彼女は「人前式でやろうよ」と彼に提案してみた。着るものもお仕着せの文金高島田やウェディングドレスではない、ちょっと自分らしいオリジナリティのあるものにしてみたかった。

彼の反応は、微妙なものだった。だが、特別な反対というものもなかった。どうしても女性の方が結婚式の準備には夢中になるもの。そのときの彼女には、彼の無反応はそれほど気にならなかった。


結婚式についていろいろ調べていくうち、彼女はどんどん結婚制度に詳しくなっていった。そうして、そもそも結婚して籍を入れることで、自分だけ苗字を変えるというのはおかしいのではないか?と思うようになった。
ちょうどその頃、「夫婦別姓」が少しずつ話題になりはじめていた時期でもあり、彼女は「自分たちもこれでいきたい!」そう考えるようになった。


彼女はいろんなものに縛られるより、自由が好きなタイプだ。彼もそんな彼女の自由なところを気に入ってくれている。そう思っていた。

二人の間には思った以上に深い溝があることが明らかになるまで、それほど時間はかからなかった。


<2. 亀裂>

「別姓でやってみたい」。彼に話を切り出してみたところ、思わぬ反応が返ってきた。


「それって、籍を入れないってこと?同棲とどう違うの?」


「でも結婚式は普通にするんだし、何より二人が夫婦だって思ってることの方が大事じゃない?神さまや紙切れより、二人の気持ちの方を大事にするって、とても本質的で素敵な考えだと思うけど」


「子どもはどうするの?籍を入れてないと『妾の子』になるんじゃない?」


「・・・『妾の子』?」


非嫡出子という名称は、当時の二人にとって馴染みがなかった。にしても、『妾の子』という言い方はありなのか?付け焼刃の知識しかまだなかった彼女には、自分の感じた違和感をうまく彼に伝えることは出来なかった。
法律婚で出産すれば嫡出子、そうでない出産により産まれた子は非嫡出子はと呼ばれ、相続の権利が半分に制限される。お金のことがいいたいわけではなかったが、生まれてきた子どもには何の責任もないのに、それを大人の事情で差別する。このことを『妾の子』だから当然、と考える方がおかしいんじゃないか。今だったらそう、違和感の元を彼に伝えられたかもしれない。


「私、自分の名前を変えるのが嫌なだけなの。だから、私の姓を名乗ってくれれば籍は入れられるよ」


軽い気持ちで言ったつもりだった。ところが、思わぬ強い口調で彼は反応した。


「俺をそっちの『下』に置きたいのか!?俺は婿養子なんて嫌だからな!」


握りしめた拳をテーブルに叩きつけた彼の勢いに、彼女は驚いた。というより、怯えた。こんな風に頭ごなしに怒られたことは、この5年間一度もなかった。この人は怒るとこんな風になるのか。初めて、彼の素顔を見た気がした。


「でも、私が名前を変えるってことは、あなたの言い方だと私が『下』になるってことでしょう?私もそれが嫌なのは同じなんだけど。だから別姓ってちょうどいいと思う」

「俺の苗字になるのはそんなに嫌?そんなに俺のこと嫌いだったんだ。あっそう」


とりつくしまがなかった。数日後、彼の実家でこの件について話し合いの場があったときも、彼はまったく自分から説明をしようとはしなかった。俺は賛成してない。そんなのそっちが説明しろよ。
孤立無援の状態で、彼の実家で自分の考えを説明させられた。当然、彼の両親が納得するわけはなかった。


籍を入れないなんて。そんなの結婚じゃない。同棲、内縁じゃないか。うちの息子は長男なんだ。親戚も集まるし、普通の結婚式をやってもらわないと困る。どうせ結婚式の費用は親がかりになるんだ。言われたとおりに普通のことをやっておいた方がいい。

「普通」という言葉を何度も会話の中に織り込みながら、あからさまに不快感を顔に出す彼の父は、彼に似ていると思った。


女の子だったら、彼の名前になって花嫁衣装を着るのが嬉しいものじゃないの?あなたは嬉しくないの?本当にうちの息子のことが好きなの?


そうじゃない、そうじゃない。好きだから結婚しようと思ったのに。企業の吸収合併みたいな、これが本当に結婚なの?彼の母に問いただしたいのは、むしろ彼女の方だった。


意見の食い違いは、最後まで埋まらなかった。

けれど職場結婚になることもあり、二人とも式を延期したり中止することを考えなかった。お互い、意地になっていた。
レストランでこぢんまりやりたいという彼女の希望は、結婚式場で親戚、勤務先の上司や同僚を大勢呼ぶ形になった。その分、衣装は彼女の意見を通す。そんな風に、本質に触れない形で表面的に、準備は粛々と整っていった。
結婚式兼披露宴は、当初の予定どおりの日取りで行われた。


そうして、結婚によって表面化された二人の亀裂は、修復されることはなかった。
5年もの間付き合った二人は、1年も経たないうちに別れた。


<3. 彼女と「結婚」>

彼女の結婚観に否定的な意見を持つ人は、彼や彼の両親だけではなかった。
会社の同僚や友人の中にも、彼女にあれやこれやと意見するものは少なくなかった。


「なんでそんなに自分の名前にこだわるの?たまたま今まで使ってきたけど、要は記号みたいなものでしょ」

「苗字が変わったって、自分の本質は変わらないよね。別にいいんじゃない、苗字くらい変えてあげたって」

「名前変えたくないって、それ単なるわがままだと思うなー。名前にこだわるほど偉い人ってわけでもないじゃん、私たちは」

「難しく考えすぎじゃないの。結婚する人はみんな、普通にそうしてるよ」


「どうしてそう考えるのか教えてほしい」というので、彼女は自分の思いを伝えようと努力した。何度も質問に応え、自分の思いを話した。

世の中と闘おうとなんてしてない。ただ、自分の名前のままでいたいと思うだけなの。仕事や生活面では、別になんの支障もないはず。これまでどおりの自分でやっていきたい。他の人にも自分と同じことをやれなんて強制してないよ。だってそもそも、男性は名前を変えないじゃない。そっちが許されるのに、どうして私がそれを望むことは許されないの?


しかし、返ってくる言葉はいつも大体同じだった。「こだわりすぎ」「わがまま」「普通じゃない」・・・一人だけ、本当に一人だけこう言ってくれた知人の言葉を、彼女は今も覚えている。


「ふーん。私は旦那の苗字になるの嫌じゃなかったけど、でもそういう人もいるんだね。嫌ならしょうがないし。よそのうちのことだから、そのうちで決めればいいことなんじゃない」


よそのうちのことは、その当事者同士で決めればいい。
そう、そういう風に認めてくれるだけでいい。自分の望む方法をスタンダードにしろ、なんて要求してるわけじゃないのに。

彼女はたった一人で自分の思いを周囲の人々に伝えようとした挙句、ほとんどに拒絶され、否定され、孤立した。
「理解してやろう」というスタンスの人は、決してニュートラルな姿勢でそう言ってくるわけではない。そのことには、だいぶ後になってから気づいた。


「自分は別姓には反対だ。話は聞いてやる。だがどう話をしようとも反対という意見は変わらない」

だったら最初からそう言ってくれればいいのに。決して知識の豊富なフェミニストでも別姓推進論者でもない彼女は、こうしたやりとりに疲弊し、消耗した。
そして結果的に、一生一緒にやっていこう、と思っていたはずの人とも別れることになった。


結婚って、一体なんなんだ。
これが結婚なのか。ある一定の条件下にあるものだけを「認めてやる」ためのものなのか。
その枠からこぼれおちたり、ちょっと規格外を望むだけでこんなに異端視する、それが結婚なのか。
それなら。


もう自分は一生、そんな結婚はしたくない。しないでいい。
結婚が私を認めないというなら、それで構わない。


マンションのローンを組み、自分の城を手にした彼女は、これはこれでいい。そう思うようになった。

                                                                                                            • -


一生一人でもいい。そう思い詰めた彼女だが、いま一緒に生活する人がいる。

二人で新しい生活を始めるにあたり、籍や名前をどうするかは不安だった。
思い切って切り出した彼女に、その人はこう言った。


「自分も苗字変えたくないし、そっちも変えたくないなら、当面籍入れないでやってくしかないでしょ。マズかったら入れればいいんだし」
一人の人との別離まで引き起こした「問題」は、この一言であっけなく片付いた。


彼女は現在、二人の子を持つ母になっている。苗字は相変わらず、自分が子どもの頃から使ってきた戸籍名のままだ。
パートナーのことは「夫」と呼んでいる。二人の関係は「夫婦」であり、自分たちは「家族」だと思っている。



※この話は、あるフォロワーさんとの会話から、書きとめておこうと思ったものです。
「彼女」がだれであるかについてはご想像にお任せしますが、私の考え方は「彼女」にとても似ています。