「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記」再読


GWは本当はのんびりと家で本でも読みたいんだけど、家族揃って大移動が常なのでなかなかそうもいかず。


感想書くのが大変で、ブログにはよほど感銘を受けたものくらいしかアップしないけど。本もそこそこ(月4,5冊ペースってそうでもないのかな?)読んでいる。
※ちなみに目下の課題は、だ〜いぶ前に予約入れてて今頃順番が回ってきた「スティーブ・ジョブズ」全2巻だったりする・・・2週間で読める気がしない(-_-;)


先月に長崎に行ってからちょっと自分の中での宗教熱が高まっていて*1、何度めかの再読中なのがこの2冊。

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

「沈黙」は、高校受験のときの模擬試験で出会ってから何度か読んでる作品で、自分の中では「山月記」と近い位置にある。細かい描写は忘れてたので、いま読み直してるみると新しい発見があって楽しい。結末は知ってるけど、いまそこに至る物語という名の旅の途中だ。


「なぜ私だけが苦しむのか〜現代のヨブ記」は、以前とてもつらいことがあったとき、まさに救いを求めるように読んだ本だった。そのときは意味がよく理解出来なくて、そのときのつらさはこの本では解消されなかった。

その後、友人につらいことが起きたときにまた読んで、ああ、そういうことを書いていた本だったのか、とようやく呑み込めた気がした。


どちらも、普通に善良な人が耐え難い悲劇に襲われたとき、神という存在は何をしているのか?なぜそんな過酷な運命を背負わせようとするのか?という命題に挑んでおり、


「神もまた不完全な存在。悲劇や不幸の発生は神の所業ではない

「神は不幸に見舞われた人と共に悲しんでいる。すべてをコントロール出来ない自分を嘆いている」

「不幸に見舞われた我々は、神に対して”なぜ?”と問うのではなく、その運命を受け止めたうえで”この状況で自分には何ができるか?”を問い直さなければならない。それこそが祈りである」


ということを主張している(はず)。

これを宗教の欺瞞と取ることも出来るけど、神を完全な存在とせず、一方不完全な存在である人間の祈りを信じるっていうのは、なんだかいまの自分の気分にもとてもフィットしていて、読後感がとてもよかった。


自分にとっては「不完全な自己を肯定する」って永遠のテーマで、それは柔術を始めてからよりはっきり認識するようになった気がする。
頭の中だけで論理をこねくり回す神学論には興味を持てないけど、みんな弱い存在で同じようなこと考えてるんだな。だからこそ「神」を信じることで乗り越えたくなる人もいるんだな、とわかるようになったというか。


「なぜ私だけ〜・・・」で、ちょっといいなと思ったのが、ユダヤ教のある習慣。

スーダット・ハヴラアーというもので、葬式を出した遺族は食事を作ってはいけない。必ず周囲の人間が作ったものを食べなくてはいけない、というもの。


日本のこういう習慣は穢れの思想と結びつきそうだけど、ユダヤ教のそれは「身内の葬儀を出した人間はとても孤独に陥りやすい。食事を供することで他人が適当に介在し、身内だけでつらさを引き受けずに済むようにしてやった方がよい」、という考えからきている。

これは本当にそのとおりだ。悲しみという感情は他人には踏み込めないものだけど、だからって遠慮ばかりしていると当事者たちはどんどんその感情に引きずり込まれてしまう。

日本の葬送システム(通夜・告別式・初七日・四十九日、以降の法要等)も、その点ではよくできてるんだよね。


二人の子どもを持って読み直してみると、著者のこの言葉は本当に胸が痛くなるほどに共感する。

語り口は穏やかだけれど、これは彼の慟哭の書なのだと思う。


  アーロンの生と死を体験したい今、私は以前より感受性の豊かな人間になったし、
  人の役に立つ司牧者になったし、思いやりのあるカウンセラーにもなったと思います。

  でも、もし息子が生き返って私の所に帰ってこれるのなら、そんなものはすべて
  一瞬のうちに捨ててしまうことでしょう。


  もし選べるものなら、息子の死の体験によってもたらされた精神的な成長や深さなどいらないから、
  十五年前に戻って、人を助けたり助けられなかったりのありきたりなラビ、平凡なカウンセラーとして、
  聡明で元気のいい男の子の父親でいられたら、どんなにいいだろうかと思います。


  しかし、そのような選択はできないのです。


  私は、アーロンとアーロンの人生が教えてくれた
  すべてのことを思い起こす。
  なんと多くを失い、なんと多くを得たことか。
  昨日の痛みはやがて去りゆくだろう。


  そして、私は明日を恐れない。

*1:とはいえ、残念ながら特定の宗教に帰依するほどには信心深くないのです・・・