わたしを離さないで


カズオ・イシグロ氏の著作で、評判の書・・・というより、映画になるというのでちょっと興味を持って読んでみた。
「Never Let Me Go」という原題も素敵だったし。


※ということで、以下小説版「わたしを離さないで」について述べているけれど、映画版の知識も多少入っているので、基本的にネタバレOKな方のみ御覧ください。


わたしを離さないで

わたしを離さないで


SF的な設定についてはある程度前半で読めてしまったけど、そんなことは多分本論ではない。ここで展開されているのは、普遍的な人生についての悲しみや寂しさ、そして何より愛おしさなのだと思う。過ぎ去っていった時間の意味、その蓄積を、終末期に自分がどう振り返ることになるのか。その覚悟を元々持たされてこの世に生を受けたのが、語り部であるキャシーを始めとした「ヘールシャム」の子どもたちなのだろう。


最初はただの全寮制の学校かと思うヘールシャム。そこで流れていく奇妙でいながら、とてもありふれてもいる彼らの日常生活。
自分たちと同じような級友たちの間で、そのわずかな差異をあげつらい、ちょっと仲間はずれにしたり遠巻きにしたり。そんな微妙に閉塞的な空気にまず、既視感を覚えた。

小学校高学年〜中学時代に感じた、あの独特で息苦しい世界。大人はそこにいるけれど、だれも自分の世界を変えてくれない。自分もまた、その世界を変える力を持たない。ただ、自分の居る場所と内面とのちぐはぐさだけは自覚出来てしまう、あの酸素の薄い時代の記憶がフラッシュバックする。


映画版ではちょっと扱いが軽くなっているようだけど、小説の中で一番好きなのはノーフォーク=ロストコーナーの下り。我ながらセンチメンタルだと思うけれど。
映画版はトミーの最期をキャシーが看取るようで、そうなるとこの二人の関係が一番ロマンチックに描かれるのは間違いなく。かつてキャシーが失くしたカセットテープをノーフォークの雑貨屋で二人が見つけるエピソードは、取り上げ方によっては2時間の尺では過剰に甘くなってしまうのかもしれない。


けれど。

未来に就く職業を夢見ることも禁じられ、誰かとめぐり逢って子どもを産み、育てる。そんな「人間として」当たり前の未来を望むこともなく、ただポシブルの役に立つために生まれ、生き、そして死んでいく。そんなヘールシャムの子どもたちだからこそ、自分の人生の中で失くした大切なものが、ノーフォークでなら見つかるかも、という「希望」にすがりたくなる。

その切ないまでの(己の)存在理由に賭ける願いが端的に表されたエピソード、それがノーフォークの下りだ。それが、一体どんな形で映像化されているのか、映画館でぜひ確認したい。


臓器提供のドナーに、感情を豊かにする教育を施すことに意味があるのかどうか。エミリ先生やルーシー先生たちの葛藤や選択は、一見まったく関係のない世界のことに思えるけれど。
人の親となってしまった自分にはどうしようもなく突き刺さる問いだ。「どうせいつか死んでしまうのに、楽しいだけではない人生を送ることに意味はあるの?」、と。

けれど、トミーとキャシーが最後にすがる「本当に愛しあったカップルには、ドナーとなることが3年間猶予される」。この哀しいデマのために行動を起こすことが出来たという事実が、すべての答えなのだと思う。


肉体は滅びても、それまで過ごしてきた子ども時代、思春期(そしてその後の人生も)の記憶は消えない。いいことも、悪いことも。
経験という地層の上に築かれる人生は、どんな人のものでも、等しく尊い


読後、失くしたカセットテープから流れるジュディ・ブリッジウォーターの声に身を委ねて、一人の時間を過ごしてみたくなる。そんな本です。



【蛇足】

震災後、ネットの情報によって過剰にドライヴかかったり、そうかと思うとものすごく落ち込んだり、なんとなく精神的揺れが激しい今日この頃。
自分の中で何かにすがりたくなった気分。といって、道場にもいけず。


ということで、少し前に読了していたこの本のレビューもどきを書いてみました。

フィクションの世界が持つ力に、ほんの少しの間だけ、癒された気がします。