ただ寄り添うことの難しさ〜「隣る人」


話題のドキュメンタリー映画「隣る人」、ようやく観てこれた。


ある児童養護施設での職員(保育士)とこどもたちのと触れ合いを8年にわたって記録し続けたものなんだけど。何がすごいって、その徹底的な「隣り具合」がもう半端ではない。
(ちなみにタイトルにもある「隣る」とは、だれかの隣に寄り添い続ける、という意味の造語)


実際、こどもたちは職員を「ママ」と呼ぶ。それくらい、親同様、いや親以上にいつも彼ら/彼女らはこどもたちのそばにいる。
職員たちは朝早いうちから起きて朝餉のしたくをし、こどもたちと朝食を共にして身支度を整え、学校に送り出す。学校から帰って来れば宿題を見てやり、いざこざの仲裁をし、一緒に夕食を食べてこどもたちの横に布団を敷いて、絵本を読んだあと一緒に眠る。


これを単純に「早出や夜勤のある仕事」と言えるのだろうか?
一般的な家庭での営み、そのものではないか。


でも、仕事なのだと思わされるエピソードも当然入る。
ムッちゃんとマリナを担当するマリコさんは、当然仕事が休みの日がある。休みの日=彼女らにとっては「ママがいない日」だ。
そんなときマリコさんは、ちゃんと宿題をやるようにとか、ちょとしたメモを二人に残しておく。
二人は不在のマリコさんの布団を敷き、どっちがそこで寝るかを競い合う。


「・・・いい匂い」
枕や毛布に残るマリコさんの気配をまとって、二人はようやく安堵したように眠る。


イカは担当のマキノさんが大好き。最初は食卓にお箸やら砂やら撒き散らして大変だったけど、ちょっとずつ距離を縮め、いつも抱っこしてるほど仲良しになった。けれど。


施設運営も仕事なので、職員の異動がある。これは大人の世界の事情だ。
でもそれは、マイカにとっては大好きだったママを奪われる突然の悲劇でしかない。
一度親との暮らしを奪われて施設に来たこどもが、もう一度親代わりの存在を奪われる。この不条理と、小さな身体で戦わなくてはいけないこどもたち。*1


ムッちゃんには実母がいるが、病気のせいもあって一緒に暮らせない。
ムッちゃんと何度か面会する機会はあるものの、赤の他人ではあっても毎日生活を共にするマリコさんみたいには、実母に打ち解けられない。


実母は連絡もなく施設に来たり、気の進まないムッちゃんに泊まっていけと言ったり、どうにもやる気が空回りしてしまう。
結果的に、映画の中では二人は訣別することになる。好きなのに、好きだからこそうまくいかない・・・

イカのエピソードと並んで、見ているこちらの胸を抉る展開だ。


とにかく、「自分を見て!愛して!受け止めて!」と全存在をかけてぶつかってくるこどもたちと対峙し、常に隣に寄り添う「仕事」。
これをこなしている職員と、寝食を共にしながらこどもたちを受け止めよ、と職員に強いることができる施設長の強い意志が、この奇跡のような空間を創り出しているのだと思うと、その圧倒的な愛の深さ、思いの強さに打ちのめされる。


だって「隣る人」として常にこどもたちに寄り添うことは、それ以外の自分の生活や時間をほぼ失い、供出することと同義なのだ。

選んで親になったはずの自分ですら、「こんなに大変なことだったんだ」とやってから初めて気づいたくらいだ。いまでも、そこまでする覚悟があるか?と問われれば、正直たじろぐ。というか、日々そのせめぎ合いの渦中にいる。


全国にある児童養護施設がこうした施設ばかりはないと思うし、この施設を理想化することで児童養護施設で暮らすこどもたちの抱える問題が、すべて解決するほど単純な話でもないだろう。


親と共に暮らせないこどもたちに対する社会的養護とは何か。自分はそこにどうアプローチすれば何がしかの役に立つことができるのか。
映画を観終わってからもずっと、考え続けている。


――とにかく。

いま、自分の隣にいる二人のこどもたち。これからも彼らとのささやかで平凡な日々を大切に、丁寧に暮らしていくことからしか始まらないのは確かだろう。

*1:このくだりは予告編の中にもある(0:54〜)。マキノさんから引き剥がされて号泣するマイカを黙って見ているムッちゃんの姿もまた、切ない。