じれったいヤツ


親の自分がいうのもアレだが、息子は足が速い。
ただそれは、徒競走だと1位か2位だけど学年を代表するほどは速くない、という微妙なレベルで。


40名ほどのクラスの上位3名までに入れれば、秋の運動会でリレーの選手に選ばれるところを、残念ながら毎年4位か5位。あとちょっとのところで手が届かない。まあそれも本人の実力、といえばそのとおりなのだが。


数日前、友だちと遊んでいて手に怪我をした。固定するために包帯ぐるぐる巻きにはなったけど、一ヶ月ほど先の運動会前には楽勝で治りそうな、そんな程度の怪我。だったはずなのに。

体育の時間、リレーの選手を選ぶタイムトライアルで同タイムを出したクラスメイトに、あろうことかリレーの選手枠を譲って帰ってきたという。


「お・・・オマエ、バカかぁ!?


子どものことなのに、思わず激昂して大声を出してしまった。なぜ、どうして、走りもしないで。何の理由で!?

頭ごなしに怒られて、もともとリレーの選手になりたかったはずの息子が泣きべそをかきながら言うには。


手の怪我をしてしまった。病院では大事にしないと治りが遅くなる、と医者に言われた。そんなのはイヤだ、今だってギプスで固定して不便な状態なのに。

タイムトライアルで走ることによって手の怪我が悪化すると、不便な状態がもっと長く続く。そんなのもっとイヤだ、だから走らないでいいと思った。それでクラスメイトに3位の枠を譲ることにした――


・・・怪我したのは左手だ、足じゃない。そもそも、走ってみれば手の怪我がどの程度足に影響するのか(しないのか)わかるではないか。

意気地ナシ、あれほどなりたかったリレーの選手なら、なぜがむしゃらに本気を出して他人と競い合い、選手枠を勝ち取ろうとしないのか。
電話しろ、今からでも学校に電話して、もう一度タイム計ってくださいと先生に言ってみろ。リレーの選手になりたい、と常々言っていたオマエの思いはその程度のことだったのか。


途中で気付いたけれど、明らかにヒートアップしすぎだ。ああ、イカン、落ち着け自分。

そのとき、まくし立てていた私の言葉の隙間を突いて、息子が叫んだ。


「ぼくだってリレーの選手になりたかったよ!それなのになんでママが、そんなにぼくを責めるの!?」

「頑張れって言うなら、どうしてもっと励ましてくれないの!?なんでそんなにぼくのこと怒るの!?」


グサリ。確かにそうだ。一番悔しいのは息子のはずなのに。

しゃくりあげる息子が落ち着くのを待ってから、いつの間にか大きくなっていたその両手を取ってぎゅっと握り締める。


ごめん。言い過ぎた。でも君がいつも頑張っているのがよくわかってるから、どうしても残念だと思ってつい強く言ってしまった。ごめん、本当にごめん。


所属している陸上のクラブで、君は去年まで「疲れた、行きたくない」とこぼしてばかりいた。

高学年になってこれまでなかった合宿にも参加することになり、春には散々ごねていたのが、夏の合宿では暑い中きちんと最後まで通うようになった。すごく立派だった、偉かったよ。


まだ競技会では思わしい結果は出ていないけれど、去年までよりずっとずっと君は成長している。進歩している。自分では気づいていないようだけど、君はきちんと成果を出しているんだよ。だからこそママは、タイムも計らずに帰ってきたことが残念で仕方ないんだ。

走れば、絶対に君の方が速い。自分だってそう思うだろう?


泣きながら息子がうなづく。そうだな、確かにこんな風に、あからさまに息子を肯定したり褒めたことはあまりなかったかもしれない――


その後、落ち着いた息子は自分で担任の先生の家に電話を入れた。

「明日またタイム計ってくれるって・・・!」


ことの顛末を父親に報告している息子の声を聞きながら、夕食の支度をする。

子どものこと、褒めて育てるのって難しい。

自分があまり親に褒められなかったから・・・というか「いい子」であることでしか褒められてこなかったから、普通に子どもの特性を認めて肯定する、ということをつい忘れてしまう。

でも、大人だろうと子どもだろうと、みんな誰かに自分のことを褒めてほしい、認めてほしいと思って生きている・・・


こんなところに書くより、面と向かって言うべきなんだろうけど。

頑張れ、息子。タイムトライアルの結果がどう出ても構わないから、思いっきり全力で走っておいで。
ママは君のこと、ちゃんと応援してるからね。本当だよ。