あの日から一ヶ月


3/11の震災後、丸一ヶ月が過ぎてしまった。

3/10までの自分が、何を考えてどう暮らしていたのか。大して変わってないような気もするけど、そんな日がものすごく遠いことのようにも感じる。


昨日の夕方の余震には驚いた。

友だちの家から帰宅した息子は、ドアを開けるなり「地震、揺れたね!」と興奮した様子で帰ってきた。
夫に連れられて保育園から帰ってきた娘も、「今日ね、保育園で地震あったの。○ちゃん、怖かったのー」と話す。震災直後は言語化できなかった思いが、この一ヶ月で二人の中に蓄積されたのだろう。


余震の被害を報じるテレビの画面に、二人とも釘付け。ちょっと前まで震災報道を「同じものばっかりで飽きた。他のに変えてよ」と怒っていた息子なのに、避難所で揺れに怯える幼児の姿を食い入るように見ている。かと思うと「原発ってなんでなくせないの?危ないから止めればいいじゃん」、と自分なりに感じた意見や疑問を口にするようになった。

娘は最近、自分が怖い思いをすると人形やぬいぐるみを持ち出してきて、「赤ちゃん、地震怖いって泣いてるの。だから○ちゃんがヨシヨシってしてあげるの」と言って寝かしつけるようになった。自分の感じた恐怖感を人形に転嫁させて、それを慰める形で気持ちを鎮めようとしているらしい。なんだかいじらしい。


夕べ。本当は土曜日に続いて、道場に行くつもりだったのだ。でも、余震と子どもたちの様子を見ていて、なんだか置いて出かけるのが忍びなくなった。というより、自分が出かけたくなくなった。家族の側にいたい、と思った。
もうこの日は大きな余震はないだろうとわかっていたけれど。


と思っていたら。今朝になってまた余震。緊急地震速報のアラームが携帯から鳴り出し、次いでテレビの画面からも同じ音が。
登園準備をしていた私の側に、ぬいぐるみを抱いた娘が駆け寄ってきて腕をつかむ。

地震、怖いよー」「○ちゃんが保育園にいるとき、また地震起きたらどうするの?」・・・瞬間、胸が痛くなる。あと30分くらいで、この子を保育園に置いて私は出社する。もし何かあれば、徒歩3時間半は有にかかる場所へ。


「大丈夫、保育園の先生が守ってくれるから。パパとママもすぐお迎えにいくからね」

小さな肩をぎゅっと抱きしめ、絹糸のように細い髪を撫でながら、本当は不安で子どもから離れたくないのは自分の方だとわかっていた。怖い。自分がいないときに子どもに何かあったら。想像するだけで全身に氷のような冷たく鋭い波が走る。


生徒の8割が死亡か行方不明、という小学校の記事を読んだせいか、嫌な夢を見た。
記事にあった、子どもの遺体や遺品を探して必死になって瓦礫をひっくり返す母親の姿。それがいつしか自分に変わる。

夫か他の誰かが、もうやめろ、諦めるしかない、と側で言う。カッときて泥だらけの手でつかみかかり狂ったように叫ぶ。

諦められるか、馬鹿野郎。ここにいる、あの子が助けてって言ってるんだ。私にはわかる、なぜお前にはわからないんだ。そんな自分の姿を、離れたところでもう一人の自分が黙って立って見ている夢。
目が覚めた後の、なんとも言えない倦怠感。身体中がじっとりと汗ばんでいた。


こんな日をこれから、幾度過ごせば「穏やかな日々」が訪れるのだろう。

生活の中に、シーベルトやベクレルといったこれまで馴染みのなかった数値が当たり前のように顔を出し、終息するアテのない放射能漏れの状況を毎日ニュースで確認する。とにかく誰かを、何かを批判する声の高さには目眩がするほどだけれど、自分の暮らしと事態を好転させることの間には何の接点もない。この無力感と、いつまで戦っていかなくてはならないのだろう?


一ヶ月という月日は、多分これから先の数年、数十年という復興までの日々に比べたら、まだほんのわずかな時間だ。
悲観的なことを言いながらも、日々の暮らしの細々としたあれこれに追われ、子どもたちを叱ったり一緒に笑ったり、道場での練習内容に一喜一憂したり。そうしてふと独りになったとき、とてつもない絶望感に襲われて沈み込んだり。そんなことをやっぱり、自分は続けていくのだろうと思う。


これからの自分の人生に、新たなオプションが加わってしまった。これは紛れもない事実だ。
けれど、この現実を受け入れて自分らしく歩き出すには、私にはまだもう少し時間がかかりそうな気がする。


今の時点でもう、具体的なアクションに結びつけていける人はいいな、と思うけど。

この薄い膜のような無力感と同居してる時間の過ごし方もまた、自分自身なのだ。


「被災地の人はもっとつらい日々を過しているのだから、自分ももっと元気を出さないと」そういう表現をよく目にするけれど。
この期に及んで、他人の身の上に起こった不幸と自分のそれとを比較し、その結果で自分のモチベーションを保つやり方だけはすまい。そう思っている。

私は私自身の暮らしの中で、喜びや絶望と一緒に、自分の人生を歩まなくては。