わたしを離さないで(映画版)
映画の日だったので、ずっと観たかった「わたしを離さないで」の鑑賞に渋谷まで。
※以下、ネタバレまくりなので、気になる方は見ないでください。
・・・ノーフォークの雑貨店エピ、見事にスルー(´・ω・`)
限られた上映時間の中で、キャシーとトミー、ルースの3人に的を絞りつつSF的設定を説明しなきゃいけないから、スルーされちゃうのは仕方ないよなあと思いつつ。
原作は長い年月を辿り、数々のエピソードを淡々と積み上げていく中で、人生で大事なことって一体何なんだろう?、と考えさせられる構成で、それは映画も同じなんだけど。
構成するピースが減ると、深い味わいが減っちゃう感は否めず。*1これは原作とほとんど構成変えず、淡々と時系列に沿ってくやり方だから余計目についちゃったのかもしれない。
ただ、映画としてつまらないかというとそうではなくて。
そこは俳優という、生身の演者の力がより際立つものになっていたように思う。
特にキャシー役のキャリー・マリガン。彼女の抑制の効いたまなざしで語る演技は、キャシー役にぴったりはまっていた。ヘールシャムでの過去を振り返る導入のセリフと、遠くを見つめる彼女の目だけで、もう「わたしを離さないで」の世界に連れてってくれる。
原作を読んでいて、惹かれ合っているキャシーとトミーの間になぜルースが割って入るのか、そしてキャシーに惹かれてるトミーが、なぜルースとなかなか別れないのか、が不思議だったんだけど。
後半のルースのセリフ、「(惹かれ合っている二人が)妬ましかった。独りぼっちになるのが怖かった」。この孤独感への恐怖が、生身の人間の身体で演じられたことでより強調されたように思う。
コテージで、隣室にいるキャシーに聞えよがしに大きな声を上げ、裸で絡み合うトミーとルース。いくら激しく抱き合って相手の肌の温もりを感じたところで、この場所を出ていけばもう自分たちに待っている未来は、臓器提供者としての「死」だけだ。それを一瞬でも忘れさせてほしくて、二人はお互いに離れられない・・・このやるせなさは、原作よりも映画の方がダイレクトに伝わった気がする。
ルースの死の場面もかなり生々しいし、その後を追うように手術台に横たわるトミーとキャシーの別れの場面も、映画の方がリアルだ。
その生々しさを中和するかのような、遠くを見据える穏やかなキャシーのまなざし。キャリー・マリガンの起用が、この映画ではとても活きていると思った。
他の人の感想ブログも読んだけど、中に「どうしてそんな運命を受け入れてしまうのか。逃げればいいのに。見ててイライラした」、という意見もあった。そうだろうなあ、原作読んでるとあまり気にならないけど、普通はそこから逃げるもんだと思うよね。
でも、彼らは子供の頃からそう教育されて育っている。抗うことといえば、提供猶予の噂*2にすがり、エミリ先生の家を尋ねる程度だ。
システムからはみ出せないけれど、それでもその制限された枠の中で、精一杯自分たちなりに可能性に賭け、人生に挑んだ。あの場面はそういうものだと、私は思った。
それは決して、架空の世界の話じゃない。私たちだって、そんな風にいまを生きている。
他人から見れば「こうすればいいだけじゃない。そんなこと悩んで、バカじゃないの?」と思うようなつまずきでも、超えられないときにはうずくまるしかない。それが自分に出来る精一杯なら、そうするしかない。
それでもなんとか、自分なりに着地点を見つけ、また少しずつ前を向いて歩こうとする― それが「生きる」ってことだ。他の誰かの代理でない、自分オリジナルの人生を、自分らしく生きるということ。
震災以降、なんとも言えない無力感と、薄い膜のような絶望感に日々囚われつつ、それでも日常のあれこれを淡々とこなしている自分には、原作と合わせてそれなりに楽しむことが出来た作品になってました。